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真夜中の札幌 手稲山人の読書録 歴史 4 TOP 目次 HOME
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… 2000年11月12日 …

よしだみどり 著 「烈々たる日本人」 日本より先に書かれた謎の吉田松陰伝
             
祥伝社 ノンブック(新書) 平成12年10月刊

 松陰吉田寅次郎(1830−1859)の伝記を「宝島」の作者、ロバート・ルイス・スティーヴンスン(1850−1894)が世界で初めて書いたという、信じられないような話である。 なぜ?? どうしてそんなことがあり得るのか?!

 著者は、かつては子供向けのテレビ番組「ロンパールーム」のお姉さんであり、また「毎日小学生新聞」に「英和対訳絵本」を連載する人であった。その彼女がスティーヴンスンの「子供の詩の園」に出会い、スティーヴンスンの人生そのものに関心を寄せたときに、彼女のよく知っている「吉田松陰」と言う名前があらわれたのである。

 とうとう彼女は「人物と書物に親しむ Familiar Studies of Men and Books , 1882 」の中に「ヨシダ・トラジロウ」を発見する。著者は、本書の第1章にスティーヴンスン作として訳出した(28−58頁)。 「ヨシダ・トラジロウは、長州の兵学師範を世襲する家の後継ぎであった。・・・

 彼の最大の関心事は、日本の置かれている状況であった。日本にとっての将来、その より良い姿を描くためには、日本の現状を知ることが大切だと考えていた。・・・ (日本と外国の軍備のあり方がどのようなものか、松陰は知りたかった。ペリーを追 いかけ、渡航に失敗する。老中を暗殺しようとして旅に出て逮捕され、江戸に送られ た松陰は未決囚の牢屋にいた。隣の独房には日下部伊三次[?]がいた。・・・)

 ヨシダのほうに顔を向けたなら、彼も同志の囚人として連座させられたであろう。

 クサカベは、ヨシダにチラッと視線を投げかけただけで、大きな声で次の2行の漢詩 を吟じて別れの挨拶をした。

    大丈夫寧ろ玉となりて砕くべし
    瓦となりて全うすること能わず ・・・・・ 」

 スティーヴンスンはこの草稿の本当の著者は自分ではないこと、マサキ・タイソウと言う教養ある日本の紳士から話してもらったものであることを認めている。

 この人物は正木退蔵(1845−1896)といい、萩藩出身、東京職工学校(東京工業大学の前身)初代校長でもあった。彼はもちろん松下村塾の出身で少年の頃とはいえ、吉田松陰の謦咳に接したことがあった。しかし、正木退蔵とスティーヴンスンとの出会いは、どこで、どのようにであったのか?  

 正木退蔵は日本からの留学生を監督するとともに、理学・工学関係の教官を物色していた。文学ではあり得ない。著者は、明治時代の日本と英国の関係について調査を進める。とりわけ、スコットランドから来た優秀な「お雇い外国人」たちやエディンバラ大学のことである。スティーヴンスンは祖父の代から「灯台造り」の家系であり、エディンバラ大学に学んだ。工学部に進み、「新型灯台用明滅灯」という論文を書いた。本人は横道に逸れたとはいえ、スティーヴンスン・ファミリーは科学者という立場から、スコットランドの各大学の教授たちと密接な関係があった。

 父トマス・スティーヴンスンは、グラスゴウ大学の名物教授フレミング・ジェンキンをエディンバラ大学に呼ぶことができるほど実力があり、高名な物理学者ケルヴィン卿とも面識があった。また、ケルヴィン卿はスコットランドの学者を日本に派遣したり、日本人の留学生の面倒を見てくれた。実際のところ、ジェンキン教授とケルヴィン卿は東京大学の工学部の教授を推薦してくれた人物であった。

 東京大学の2人目の工学部教授アルフレッド・ユーイングの回想から真相が判明する。
 「私にとって、ルイス(R.L.スティーヴンスンのこと)との思い出は、 ・・・・・・1878年のある夏の思い出である。

 それは、ジェンキンが私とルイスを、東京大学の教授となる人物を探し求めてエディンバラにやってきた日本の官吏、マサキ・タイソウ氏に会わせるために夕食に招待してくれた時で、マサキ氏が私に白羽の矢を立てた時のことである。

 マサキ氏は私たちに、日本の革新時代の初期の英雄、ヨシダ・トラジロウの話をした。 それは愛国と冒険・苦闘の連続と、希望と挫折の物語であった。 
ルイスは深く感動した。

 ・・・彼は牢獄の中で若いヨシダがまもなく処刑されるという時に、この古典の詩の言葉を聞いて、いかに勇気づけられたかを語っている。

 大丈夫寧ろ玉となりて砕くべし
 瓦となりて全うすること能わず

 この言葉が、スティーヴンスンを魅惑して、彼のモットーになり、彼自身の短い生涯をもたらしたのではなかろうか。」

 正木退蔵がスティーヴンスンを含む人々に松陰の話をしたのはエディンバラのジェンキン教授のお宅で、1878年の夏のことであった。

 さかのぼること2年、1876年にスティーヴンスンはフランスを旅行しており、その地で、母娘の画学生がいてその母親のほう、36歳のファニー・オズボーンと運命的な出会いをした。彼女はアメリカ人で不実な夫に愛想をつかしていた。3人の子供を抱えて、母娘して画家をめざしてフランスに来たが、一番下の幼子を亡くし、失意のどん底にいた。スティーヴンスンは彼女を慰め励ましているうちに、1日も早く夫と離婚し、自分と結婚すべきであるという熱意を燃やしていった。しかし、ファニーは夫からせめられて仕方なく、78年アメリカに帰っていった。

 それから1年して、スティーヴンスンは、ファニーからS.O.S.電報を受け取る。彼は親友の反対を押し切り、僅かな金を用意して両親には知らせず、アメリカに渡る。飲まず食わずの船旅をして、79年8月17日ニューヨークに着いた。そこからファニーのいるカリフォルニアをめざして、移民たちと一緒に汽車を乗り継いでいった。しかし、立ち直っていたファニーは、変わり果てた姿に愕然とし、醜聞をおそれ、暖かく迎えてはくれなかった。傷心のスティーヴンスンは、カーメルの谷でキャンプ生活をして死にかけてしまうが、運良くハンターの一家に助けられる。

 病弱な彼は死を覚悟しながら、離婚が成立するまでの間、独りさびしくサンフランシスコの安宿で創作活動に励んだ。ここで「ヨシダ・トラジロウ」は書かれ、80年に雑誌に寄稿されたのである。
スティーヴンスンは、父親トマスの了解を得てファニーと結婚することができた。カリフォルニアで静養した後、妻子を連れて帰国し、両親の下に落ち着いてから、空気の澄んだ土地に転地療養する。ご存じのように、スコットランドのブレマーに滞在していたとき、義理の息子、ロイド少年を喜ばせようとして、書いた地図がヒントになって「宝島」が生まれた。父親と息子のために、毎日の一家団欒の時に1日1章のペースで書いては読み、読んでは書いた。1883年、この「宝島」が発表され、一躍有名になる。つづいて85年、「子供と詩の園」、86年、「ジギル博士とハイド氏」が生み出され、彼の三大ロングセラーになる。転地療養のため、南太平洋のサモワへ移住し、1894年12月、そこで亡くなった。

 著者はスティーヴンスンの「ヨシダ・トラジロウ」と松陰の生きた歴史を調べて照らし合わせている。同時に松陰とスティーヴンスンとの共通点を引き出して見せてくれる。二人の恵まれた家族愛と、友人を大切にすること、科学と文学への愛好は決して変わるものではない。結局、スティーヴンスンは「ヨシダ・トラジロウ」を書くことによって生きる勇気をもらい、松下村塾の輪の中に入った。

 著者は、二人の素敵な人生を照らし出すとともに、感謝を込めて「スティーヴンスンが日本に残したもの」を教えてくれた。 



  


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