
| 真夜中の札幌 |
手稲山人の読書録 ノンフィクション 4 |
TOP |
目次 |
HOME |
… 2001年12月2日 …
中原英臣/佐川 峻 著 『進化論が変わる』
講談社 ブルーバックス B−852 1991年1月刊
自然科学関係で何か知りたいことがあるときは、このブルーバックスの中からタイトルを探せばよい。進化論については高校の「生物」以来である。遺伝と有性生殖のあたりの研究はDNAの二重螺旋の発見以降、急速に進展して遺伝子解析や遺伝子操作までできる時代になってしまった。おそらく進化論も同じように進化してきたに違いない。
著者は「進化とはつまるところ、遺伝子の変化である」とするが、同時に進化を洗練させた「現在のダーウィン進化論」だけでは説明できないところがある、と言う。進化論には、@化石とA現在生きている生物に関する知識、B交配や育種の歴史からの知見が必要である。同時にまた、C遺伝子についての分子生物学の新しい観点が求められており、進化論は現在でも「まだまだ未完成で」あると言う(・・・まえがき)。
1)ダーウィンの進化論の概要
遺伝学におけるメンデルの法則や遺伝子の発見以前に考え出された進化に関するダーウィンの説(1859「種の起源」)は次のようなものであった。
@生物は一般に数多くの子供を作る。
A数が多いから、彼らの間にきびしい生存競争が起こる。
B彼らの中には変異を伴ったものがいて、その変異が生存競争に有利に働く場合がある。
C有利な変異を起こした変種は生き残る可能性がごくわずかだけ高くなる。
Dこの過程が長い間、繰り返されて、ついにその変種はその種の中の多数派となるだろう。これが「新しい種の誕生」であり、「種の進化」に他ならない。
・・・i.e. 「変異」が生存競争の中で「自然淘汰」され、「進化」に導かれることになる。
問題は「変異」の可能性である。体細胞状に起きた変化、単なる「獲得形質」は遺伝しない。遺伝子そのものの変化が生殖を通して子孫に伝わる以外は「変異」は遺伝しない。遺伝する「変異」を考えるとすれば、ド・フリースの「突然変異説」(1901)を忘れるわけにはいかない。さらに、「隔離」説(地理的、or性的隔離)などの補強により、ダーウィンの進化論は、現代でも依然として意味を失ってはいないのである。
2)新説紹介
ついでダーウィン以後に現れた進化説の中で有効と思われる5つの説を紹介している。しかし、面白いのは「連続共生説」を除いてどの説も「変異」が「進化」につながるタイミングが問題にされている。それぞれの説を順に調べてみよう。
@中立進化説(1968年、木村資生による)
今となってはご存じのように、遺伝子情報はDNAの2本の鎖をつなぐ4種類の塩基の組み合わせによって決められる。4種類の塩基はアデニン(A:
Adenine)、チミン(T: Thymine)、グアニン(G:
Guanine)、シトシン(C: Cytosine)という。この4種類の3つをセットにして「コドン」と呼ぶが、1つのコドンがある特定のアミノ酸に対応している。ところが、4×4×4=64個のコドンに対して、アミノ酸は20種類しか存在しない。同じアミノ酸を指示するコドンがいくつかあるわけで、これを「同義的コドン」という。このことは「同義的コドン」に突然変異を生じても出来てくるアミノ酸には変化がないこともあり得るわけである。また、1個のアミノ酸に変化を生じてもそれを含むタンパク質の働きに影響しないことも時としてあり得る(例:ヘモグロビンのα鎖のアミノ酸)。このように、「遺伝子そのものや分子レベルの突然変異の多くが、自然淘汰とはまったく関係のない中立的なものであるというのが中立進化説である。
そして、「進化の4段階説」が唱えられた。
(1)生物をとりまく環境に空白が生じ、生物は生存競争から解放される。
(2)このようなリラックスした状態では中立的な突然変異が急速に広まる。
(3)中立的な変異も生物にとっては有利に働くことがある。
(4)変異種が増え、環境が込み合うようになると再び自然淘汰がつよく働き、変異 種の中から新しい種が生まれる。
要するに、リラックスした状態で増加し続けた様々な突然変異の集積が、その後の環境の変化等で自然淘汰を招き、進化の原動力になる、と考えるわけである。この説は、確かに「恐竜が絶滅した後の哺乳類や、オーストラリア大陸で起きた有袋類の爆発的な広がり」をうまく説明できる。しかし、この説の考え方では、一度できた変異種が広がるメカニズムとしては分かるとしても、「新しい変異種ができるメカニズム」についてはほとんど説明していない、と言う。
A断続平衡説(1970年代初頭、N・エルドリッジとS・グールド)
化石の研究にもとづいた事実からは、新しい姿や形をした化石が突如として現れたあと、そうとう長い間、安定した状態のままほとんど変化しない化石が見つかる、と言う。
そこで、この説によると、「進化は短い間の急激な変化によって起こるが、その後はかなり長い間、生物には変化の起きない状態が続く。いわば、進化には静止しているときと、激しく変化する動的なときがある」というのである。例としては、シーラカンス、カブトガニ、ムカシトカゲなどが挙げられている。
グールドは進化するために生物の形態が変わるのは、新しい種が出来るときに限られる、と考えたのである。
B今西進化論(1980年代中葉、今西錦司)
今西錦司は「棲みわけ」と「種社会」を中心的な概念とすることによって、独特の進化論を展開する。自然淘汰を認めない。
京都の賀茂川に生息するカゲロウの幼虫の研究から「棲みわけ」と言う概念を作った。即ち、4種類のヒラタカゲロウの幼虫が、川の流速の違いに応じて分布していることに気づき、そのような自然現象を「棲みわけ」と呼んだ。また、棲みわけしているのは各幼虫の個体ではなく「種」が棲みわけていた。そのように棲みわけしている種を「種社会」と呼んだ。著者はこの説の特徴を4つ挙げた。
1)進化の単位は棲みわけする種社会である。
2)地球上で130万種におよぶ多様な生物がそれぞれ進化してきたことに注意を喚起し、生物は生存競争を繰り返すよりも、生存できる空間を拡大しながら棲みわけていった、と考える。
3)種を構成している個体の間には基本的な差がない。したがって、各個体が偶然に起こる突然変異によってバラバラに進化することはない。
4)生物の種がどうしても変化しなければならないときは、個体がバラバラにではなく、種全体が同時に変化する、という。即ち、「種は変わるべきときがきたら変わる」という。しかし、そのメカニズムについては何ら説明がない。
当然のことながら、この説が物議を醸したことは言うまでもあるまい。1986年から87年にかけて『ネイチャー』誌でさまざまに議論されたことをお知らせしておく。
C連続共生説(1967年、リン・マーグリス)
細胞は通例、原始的で核膜でおおわれた核を持たない、バクテリアのような「原核細胞」と、核をもつ普通の動植物の細胞(「真核細胞」)に分けることができる。
問題は、細胞内小器官の代表である葉緑体とかミトコンドリアが、細胞の核にある遺伝子とは別の遺伝子をもっていることがわかったことである。このことから、細胞内小器官は、外来の原核細胞からできたものだという「共生説」が有力になった。
ライアル・ワトソンは「共生説」を「第2の奇跡」とまでいった(「第1の奇跡」は生命の誕生である)。
「何とある種の細胞が他の細胞と合体し、一つの同盟関係をつくりだしたのです。それ は、機動性に富み、食物を見つけたりするのにも非常に優れた働きをもつ、まったく新 しい細胞の誕生でした。」(ワトソン)
リン・マーグリスによれば、大昔に地球に酸素がなかった頃には「嫌気性バクテリア」の天下であったが、らん藻などが酸素を大気中に生み出すようになると、嫌気性バクテリアは次第に生活しにくくなる。そうした時に嫌気性バクテリアの細胞の中に「好気性バクテリア」が取り込まれ、「共生」が始まる。嫌気性バクテリアと好気性バクテリアは互いに利用しあい、依存性が高くなって好気性バクテリアはやがてミトコンドリアになり、「新しい細胞」が誕生することになる。
Dウィルス進化説(1971年、著者たち)
むかし、畑中正一の「ウィルスとガン」(岩波新書1981年)を読んだとき、レトロウィルスや「垂直感染」、「水平感染」の話があった。つい思い出してしまったのであるが、ウィルス進化説のポイントはまさにこの「水平感染」にある。生物の種の壁を超えたウィルスによる遺伝子の水平移動を進化の原動力と考えるわけである。
遺伝子に対する研究が進み、遺伝子の組み替えによる品種改良が容易に行われるようになった。遺伝子組み替えでは遺伝子の運び屋が必要である。biotechnologyでは、virusが遺伝子の運び屋として、役に立ついろいろな遺伝子を運んでくれる。長い時間の中で「自然」が行う「遺伝子組み替え」の原因をウィルスによる遺伝子の水平移動に求めたのがこの説の基本的な考え方である。
キリンの首が突然長くなったのはウィルスの仕業であろう、と考える(中間の長さの化石が見つからない)。化石に見られる急激な変化をウィルスによる伝染病的な遺伝子の移動によって説明するわけである。「ウィルス進化説では、ウィルスは生物ではなく、遺伝子を運ぶ道具であると考える。・・・ ウィルスは遺伝子を運ぶための細胞内器官(オルガネラ)とみなすのである。」
以上のほか10種に余る「進化説」を紹介したあとで、それぞれの説の問題点を指摘する(第3章 論争の焦点)。
進化の方向というものは、どうも「偶然」的要素が強すぎて「適者生存」のような原理的なものは見あたらない。突然変異に方向などと言うものは見つからない。あり得るのは「進化」ではなく、単なる「変化」なのかも知れないと思ってしまう。
最終章は、「種の滅亡」と遺伝子に関する最近の話題の解説記事と言ってよいだろう。しっかりした学説の紹介というわけではないが、興味深く読ませていただいた。
なお、DNAやRNA及びウィルスの意味については畑中正一の下記の本が面白い。
畑中正一「ウィルスは生物をどう変えたか」−進化の演出者・ウィルスの世界を探る− 講談社ブルーバックス(B−949) 1993年1月刊
一般的に核酸(nucleic acid)と言われているものだけれども、RNA(リボ核酸)とタンパク質の世界が初めにあり、ついで丈夫な遺伝子コードの保存装置であるDNA(2−デオキシリボ核酸)が生まれたという。RNAワールドからDNAワールドへの展開があり、私たちの時代はまだDNAワールドであるらしい。
ウィルスの正体はRNAであって、私たちの体の中にもDNAとしてたくさん忍び込んでいるとしたら恐ろしい気分になる。どうやら大腸菌はおろか、ウィルスとも「共生」しなくてはならないようである。
《参考文献》
野田春彦、日高敏隆、丸山工作 著 改訂新版「新しい生物学」 生命のナゾはどこ まで解けたか?
講談社ブルーバックス(B−227) 1974年3月刊
久しぶりで本書を本棚から引っ張り出してみた。本書はどちらかと言えば、動物系生物学といえるもので生理学から入り、発生と遺伝、進化と生態学、そして生命の起源について触れている。やはり生命が成立するために必要なのは、核酸とタンパク質であったと思われる。また、エネルギーの生産と消費(=代謝:metabolism)を効率化する画期的な物質としてATP(アデノシン3燐酸・・・動物系、細胞内ではミトコンドリアが関係)と葉緑体(植物系)があることは周知の通りであるが、後者についてはほとんど触れられていない。しかし、植物が炭酸ガスからつくり出して動物どもに供給する、いわゆる「有機化合物」の生物に占める役割の大きさは改めて感じさせられた。
本書で利用される学説が成立する根拠となった事実や実験については、しばしば詳しく紹介されており、歴史上の科学者たちの苦労が偲ばれて嬉しい作品になっている。
… 2001年6月24日 …
水木 楊(よう) 著 『田中角栄』 その巨善と巨悪
文春文庫 2001年5月刊
親本:日本経済新聞社 1998年3月刊
農耕民族の島国、日本ではかつて「権利のための闘争」などというものがルールに従って行われる可能性は殆どなかった。同じように、多数者の利害を政治思想のかたちで提示し政治的に決着させるなどと言うことは誰にもできはしなかった。そもそも明治以来の帝国議会だとか、戦後の国会だとかいうものは政治思想の対決の場であるよりは、村の秋祭りの舞台と同じで観客を楽しませてくれる(とりわけ、外国向けの)イベントに他ならなかった。日本人は物事を一人で決めることのできない体質を持っている。ときには「コンピューター付ブルトーザー」が必要になる場合があるのだ。
そう考えてくると、本書の中で描き出された「田中角栄」のような行き方は、誠に日本の政治の本質にかなうものであった。著者によれば、
「自らが日本人であることを全面的に否定でもしない限り、好むと好まざるとにかかわ らず、善悪の次元を超えて、田中角栄は私たちの中にいまも棲んでいるのである」、という。
義務教育を終えただけで一級建築士を取るのも偉いが、さらに総理大臣になったとすれば、立志伝中の人物と呼ばれるにふさわしい。「列島改造論」の内容とか、「理化学研究所」との関係とかをもう少し詳しく書いて欲しかったなどと思っても仕方のないことであるが、とにかく面白く読ませていただいた。
@土建屋から政治家へ
田中角栄は新潟県刈羽郡二田村に1918年(T7年)5月4日に生まれた。父は馬喰で山っ気が多く、母を苦労させた。角栄が上京するとき、母が注意したことは「大酒呑むな、馬持つな、できもせぬ大きなことを言うな」であったが、遺憾ながらこの忠告は守られなかった。
吃りであったが、浪花節でこれを克服したという。努力家である。職を転々としながら土木学校に通った。昭和11年中央工学校を卒業し、神田錦町のアパートに「共栄建築事務所」という会社を設立した。会社は機械の製図、機械基礎の計算などですべり出し、「理研グループ」の工場建設、設備の設置などの仕事を手広く引き受けるようになる。戦争末期と戦後の混乱期を機敏に乗り切るが、土建屋ではなく政治家への道を歩くことになった。初めは進歩党に資金調達をしてやっただけであったが、結局、戦後初の選挙に立候補したのである(この時は落選)。
A代議士から大臣へ
昭和22年、新憲法施行前の選挙で角栄は新潟3区から立候補し、28才で初当選した。初め芦田均の民主党に所属したが、自由党と手を組もうとする幣原喜重郎一派が分かれ、23年自由党と合同して民主自由党ができると、角栄はその選挙部長となった。民自党総裁吉田茂を助けて第2次吉田内閣の成立に貢献するが、炭坑関係の贈収賄に関わって、逮捕される。26年ようやく無罪を勝ち取るが、この時敏腕弁護士、正木亮の知遇を得、やがて国際興業の小佐野賢治を紹介される。
頼まれれば何でもやる、という姿勢が地元でのトップ当選につながり、越山会のような後援会組織が生まれた。地元の口利きをして役人を動かすことが角栄の仕事になり、それがまた票につながる、という代議士の「常道」を歩む。
ほかの代議士と違うところは精力的に議員立法に取り組んだことであろう。成立させた法律の数は33に及び、今なお機能しているものが多い。例えば、道路を整備する財源として自動車のガソリンに税金をかけようという、有名な「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」もその一つである。しかし、よくやったものだと思う。「住宅金融公庫法」や「公営住宅法」のお世話にならなかった人は少ないのではあるまいか。
昭和32年、岸(信介)内閣の内閣改造で郵政大臣に就任するのが、大臣の始まりであるが、金で大臣を買ったという話である。しかし、同時に岸の弟である佐藤栄作の強い推挙があって郵政大臣の金的を射止めることができた、と著者は言う。
この頃、小佐野賢治に続いて東急コンツェルンの創始者、五島慶太とも親しくなることができた。
昭和35年は日米安保条約改定調印の年、自民党もただでは済まなかった。国民的な不興を受けて、岸内閣は総辞職し、「寛容と忍耐」の池田(勇人)内閣が登場する。この池田派に香川県の水呑み百姓の倅、大平正芳(大蔵官僚出身)がいた。佐藤派の角栄と池田派の大平はウマが合い、義兄弟の縁を結ぶ。後になって、大平内閣が誕生できた事情は殆ど角栄の力によるものと言ってよい。
昭和30年代後半、角栄は新潟3区に公共事業の山を築いた。事業は新潟県の全域に及び、他の県にまで影響を及ぼした。国道17号線の三国トンネルに始まり、清水トンネル、上越線の複線化、関越自動車道の完成へと続くのである。
後に「目白御殿」と呼ばれるようになった邸宅を買うが、これが生まれ故郷の旧領主、椎谷藩堀家の江戸屋敷であったあたりが角栄の素直な上昇指向のあらわれであった、という。目白御殿には地元の陳情者が群をなして集まり、角栄は「越山会」を使ってきめ細かく面倒を見た。
市町村の陳情団から受け取った案件は、目白を経由して中央官庁の役人に伝達され、事業が決定し、国庫補助が出ることになる。事業計画が決まると、土木業者が指名入札を受ける。事業の配分は談合で決まる。・・・みごとな手順である。貧しい農村の地を這うような努力から生まれた「越山会」はやがて土建王国の利益配分機構になった。
越山会の力は新潟全県に拡大し、県の土木行政は目白に牛耳られた。「こうして税金は補助金に姿を変え、巨大な利益配分機構のバキュームカーに吸い込まれ、・・・地元を発展させはしたが、田中の懐も潤した。」
B「天下をねらう」
昭和37年、第2次池田内閣が成立したとき、池田は総裁選で疲れ果て、派の大番頭、前尾繁三郎、官房長官の大平正芳、それに政調会長であった田中角栄に組閣をまかせた。池田は角栄を高く買ってはいたが、大蔵大臣にするつもりはなかった。にも拘わらず、大平と田中は、図々しくも自分たちの名前を閣僚名簿に書き込んだ。そんな風にして大平外相、田中蔵相が誕生したのである。
池田勇人は癌で倒れ、佐藤栄作の時代が来る。この時、角栄は初めての幹事長職に就くが1年ほどで「黒い霧」事件の責任をとって辞任し、無役になる。昭和42年「自民党都市政策調査会」をつくり、議員のほかに官僚、学者も巻き込んで翌年、「都市政策大綱」をまとめた。これが「列島改造論」の基礎になった。
佐藤内閣は、東京オリンピックが終わった昭和39年11月から、沖縄が復帰した昭和47年までの長期政権であった。この間、角栄は大蔵大臣と自民党の幹事長職に就いて実力をつけてきたが、同じようなライバルに福田赳夫がいた。角栄が2度目の幹事長として取り組んだ大仕事は「大学運営臨時措置法」の成立であった。時はあたかもベトナム戦争たけなわで反戦運動が燃えさかり、早稲田大学の授業料値上げ反対闘争以来、全共闘による東大安田講堂の占拠や国際反戦デーの新宿事件など物情騒然とした時代に入った。
「@紛争大学の学長は6カ月以内で一次休校できるA文部大臣は紛争が9カ月以上経過した場合、閉校できる・・・ C臨時大学問題審議会を設ける」などの内容をもつ「大学運営臨時措置法」は、園田直国会対策委員長と田中角栄幹事長の強引な国会運営によって昭和44年成立した(これを世に「直角国会」というらしい)。
日米間で繊維問題と取り引きして「沖縄復帰」が目前に迫った頃、佐藤内閣の後継者を決めなければならかった。佐藤栄作は福田赳夫を後継者に選んでいたが、そのようにはならなかった。佐藤派の中にひそかに田中派を作りあげ、中曽根に手を回して福田に勝つ。自民党内の暗闘はそう簡単には見えてこないが、やはり人脈と金がものをいったかと思われる。昭和47年7月田中角栄はついに権力の頂点に立った。
C「一気呵成」
田中角栄が総理大臣として挙げた政策は「日本列島改造」と「日中国交回復」であった。しかし、成功したのは後者の方で、前者はオイル・ショックのために看板を降ろさざるを得なかった、というのが著者の主張である。「一気呵成」とは日中国交回復を一気呵成にやりましょう、と角栄に周恩来が応じた言葉である。角栄は中国を市場としてみていたが、自民党自身の今までの姿勢を考えるなら、成算があってのことであろうか。公明党の竹入委員長の持ってきた「竹入メモ」を材料にしてもその後の国内体制のことを思うと仮に「コンピューター付きブルトーザー」であったとしても、大きな決断を要したに違いない。本書のハイライトである。
ところで、角栄が経済的に身動きできなくなった事情は本当にオイル・ショックのせいなのかどうかがよく見えてこない。何かしらニクソンとキッシンジャーに騙されたような印象を免れることができない。変動相場制によるグローバリズムの始まりなのだけれども、本当にそれだけなのだろうか。愛知揆一が死去し、福田赳夫が請われて蔵相になり、「列島改造論」を降ろしてしまった。やがて、物価の上昇と「文藝春秋」に金権体質を暴かれ、マスコミの餌食となって田中内閣は倒壊に向かった。角栄が政権の座にあったのは2年半に満たなかった。
D「大儀消滅」
田中退陣後、いわゆる「椎名裁定」で三木武夫が政権に就く。ニクソンの不正政治資金を暴こうとアメリカの上院で始まった事件の資料を三木は取り寄せようとし、地検特捜部はいわゆる「灰色高官」の名前を手に入れ、「TANAKA」を含めた事件の追及が始まる。角栄は逮捕されるが、最後まで無罪を主張、被疑者のままで当選を繰り返す。目白から大平正芳を支援し、大平死後、田中派の中から竹下派が生み出されるまでその結束は崩れなかった。
昭和60年、脳梗塞で倒れ、平成5年12月16日死去した。享年75才。